電気や携帯の電波は目に見えませんが、誰もがその存在を認め、使っています。目に見えるものだけを信じたい気持ちは、昔も今も変わらず、考え方はあまり進歩していません。約230年前にドイツで生まれたホメオパシーは、約150年前(1870年代初頭)に日本で初めて知られた不思議な療法です。ホメオパシーを知っている人も、まだ知らない人も、その基本と歴史を一緒に辿りましょう。
ホメオパシーとは:簡単な説明
ホメオパシーは、1700年代の終わり、ドイツの医者サミュエル・ハーネマンが始めた方法です。植物や鉱物などを存在がないほどに薄めて、振って作る「レメディー」を使い、体に眠る治す力を引き出します。例えば、風邪のような症状に似たものを少しだけ与えて、体が自分で治す手助けをする考えです。東洋医学の「気」に似ていて、シンプルだけど不思議な仕組みです。
なぜ信用されにくい?昔も今も変わらない?
目に見えるもの、例えば薬の錠剤や手術の傷は、効果が分かりやすいです。しかし、ホメオパシーのレメディーはとても薄められ、目に見えない力で働くため、信じにくいと感じる人がいます。昔は、漢方や鍼灸のように手で触れる治療が好まれました。今も、科学で測れる証拠を求める声が多く、目に見えないものを疑う考えは変わっていません。電気や携帯の電波も最初は不思議だったのに、今は当たり前。ホメオパシーの不思議さも、いつか身近になる日が来るかもしれません。
江戸期(1603-1868年)の素地
当時の日本は鎖国政策を取っていましたが、長崎の出島を通じてオランダとの交易があり、欧米の医療書が翻訳されました。機械論的な医療と活力論的な医療の両方が紹介されました。
- 機械論的なアプローチ: 1778年にオランダ語版の「Institutiones Medicae in Usus Annuae Exercitationes Domesticas」(ヘルマン・ブルハーフェ著、1708年)が「万病治準」として翻訳され、日本に紹介されました。「万病治準」はホメオパシーの導入を示すものではなく、江戸期の西洋医学の機械論的な基礎(身体を機械と捉え、解剖や生理学で説明)を伝えたものです。ホメオパシーの日本への導入は、明治期(1868年以降、1870年代初頭)にドイツ医学の一部としてごくわずかに知られたのが始まりです。
- 活力論的なアプローチ: クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762-1836年)の思想が広まり、1796年に出版された「Pathologue」が1850年に「Pathogenesis」としてオランダ語から日本語に翻訳されました。この書籍は、活力論的な医療(生命力や自然治癒力を重視)を広める上で重要な役割を果たしました。
日本への導入:明治期(1868-1912年)
明治維新で日本は西洋医学を急速に取り入れました。医学書の翻訳や外国人医師の指導で、ドイツ医学が中心に根付きました。ドイツのホメオパシーは一部で知られていたため、ごくわずかですが書物で紹介されました。
- 具体的な事例:『内科略説』という医学書に「ホメオパチー」の記載があり、異端医療として紹介されました(Homoeopathy History in Japan – Hpathy.com)。「ホメオパチー」「ホメオパシイ」といった表記で概念が伝えられました。
- 受容の難しさ:当時は漢方や鍼灸が主流で、薬草やツボの効果が重視されました。ホメオパシーの「似たものが似たものを治す」や極端な希釈は抽象的で、教義的と映り、広くは受け入れられませんでした。明治政府は1874年に西洋医学の医療制度を設け、1889年に薬品の規制を作り、科学的な薬や手術を優先しました(Pharmaceutical Wholesaler Museum – Encise Inc.)。ホメオパシーは細々と存在しました。
大正期(1912-1926年)の展開:香川県丸亀市に製造工場
大正時代は西洋の心霊主義、神智学、自然療法が知識人や一部の宗教家、芸術家の間で関心を集めました。ホメオパシーの「体を自然に癒す」希釈振盪する考えは、こうした流れと響き合いました。
- 具体的な事例:香川県の丸亀市で、製造工場が設立されました。正確な設立や閉鎖の年は不明ですが、大正期の自由な空気が後押ししたと考えられます。東京目黒区の「福音公司」が販売し、アメリカのボエリック・タフエル社製のレメディーを扱い、なおかつ現地四国で製造しました。丸亀市が選ばれたのは、瀬戸内海沿いの物流の便や土地の使いやすさからだと考えられます。(Homoeopathy History in Japan – Hpathy.com)。工場では植物や鉱物を薄めて振って(希釈振盪して)レメディーを作り、販売や使用がなされました。
- 福音公司の詳細:キリスト教との関連ありそうな名前ですが確認できません。経営・運営の詳細、組織、資金、販売網などの記録はみあたりません。
ボエリック・タフエル社の詳細
ボエリック・タフエル社は、1853年にアメリカで設立されたホメオパシー薬局です。
- 現在の状況:1988年にオランダのVSMに買収され、1992年にペンシルベニア州フィラデルフィアからカリフォルニア州サンタローザに移り、今もレメディーを作っています(Boericke & Tafel – SM Homeopathic Pharmacy)。
- 日本との取引:大正期に「福音公司」を通じてレメディーを供給し、自然療法や心霊主義の流行で需要がありました(Homoeopathy History in Japan – Hpathy.com)。
- アメリカでの製造:19世紀後半、ニューヨーク、フィラデルフィア、ニューオーリンズ、サンフランシスコ、ピッツバーグ、ワシントンD.C.、ミネアポリス、シカゴ、シンシナティで薬局を展開しました(The story of Boericke & Tafel)。
- 関わったホメオパス:創設者のウィリアム・ボエリックとアドルフ・J・タフェルはホメオパスです。コンスタンティン・ヘリング(1800-1880)は製造を勧め、ジェームズ・タイラー・ケント(1849-1916)は1903年に製造方法を助言したといわれます。(The story of Boericke & Tafel)。
衰退の背景
大正期のホメオパシーは、戦前・戦中(1930年代-1940年代)にほぼ消滅しました。丸亀市の工場も閉鎖されました。明治末期から西洋医学が推進され、1874年に医療制度が作られ、1889年に薬品規制ができたことで、科学的な薬や手術が重視されました(Pharmaceutical Wholesaler Museum – Encise Inc.)。ホメオパシーは科学で説明しにくく、脇に追いやられ、戦後はアメリカの影響でほぼ消えました。
麻布十番センター
横山みのり